虫プロの倒産理由|手塚治虫のアニメ会社は不振と人件費で赤字に

結論:作品が当たらず人件費が膨らみ、赤字が積み重なった

手塚治虫が作ったアニメ会社・虫プロダクション(虫プロ)は、1973年11月に倒産しました。帝国データバンク史料館の記事によると、負債は3億5000万円です。

理由はひとつに絞れません。テレビアニメのヒットが続かなくなったところへ、社員を増やしすぎて経費が膨らみ、赤字が積み重なりました。3か月前の8月には、雑誌の発行を受け持っていた子会社の虫プロ商事も先に倒産しています。

手塚は倒産の2年前に虫プロダクションの社長を辞めていました。それでも、辞めたあとも役員に頼まれるまま手形にサインしていたため、借金を個人で背負うことになります。経営に口を出せないほど忙しい漫画家が社長を務めていたこと自体が、無理のある形でした。

項目内容
会社虫プロダクション(東京都練馬区富士見台)
発足1961年に手塚治虫プロダクション動画部として発足、1962年に株式会社
倒産1973年11月5日(公式年譜は11月1日)
負債3億5000万円(帝国データバンクの記録)
先に倒産した子会社虫プロ商事(1973年8月22日)
虫プロダクション倒産時の手塚1971年6月に社長を退いていた
虫プロ商事倒産時の手塚1970年6月から社長を兼ねていた(公式サイトのコラムによる)

日付と負債額は、出典によって少し違います。倒産日は帝国データバンクと手塚治虫公式サイトのコラムが11月5日、公式年譜は11月1日です。負債も、同じコラムは「およそ4億円」と書いています。

虫プロダクションはどんな会社だったのか

公式年譜によると、手塚は1961年6月に「手塚治虫プロダクション動画部」を作り、翌1962年に名前を虫プロダクションに改めました。公式サイトのコラムは、手塚が「私財を投じて設立した」と書いています。漫画で稼いだお金で、自分のアニメを作るための会社でした。

1963年には、日本で初めて毎週30分のテレビアニメとして『鉄腕アトム』を放送します。そのあとの主な作品は、いまの虫プロダクション株式会社の沿革によると次のとおりです。

年作品
1963年『鉄腕アトム』
1965年『ジャングル大帝』『ワンダースリー』
1967年『リボンの騎士』『悟空の大冒険』
1969年『どろろ』、劇場用の『千夜一夜物語』
1970年『あしたのジョー』『ムーミン』、劇場用の『クレオパトラ』
1973年劇場用の『哀しみのベラドンナ』

手塚の原作だけでなく、『あしたのジョー』や『ムーミン』のようなほかの作家の原作も作っていました。『千夜一夜物語』『クレオパトラ』は大人向けの長編で、子ども向けのテレビアニメとは違う道を探っていたことが分かります。『鉄腕アトム』はこのあと1980年版と2003年版もテレビアニメになっていて、3作の違いは鉄腕アトムのアニメ3作の違いで比べています。

倒産までの経過

公式年譜と公式サイトのコラムから、倒産までの主な出来事をまとめました。

時期出来事
1961年6月手塚治虫プロダクション動画部を設立
1962年虫プロダクションに改名、12月に株式会社として発足
1963年1月テレビアニメ『鉄腕アトム』の放送開始
1966年9月出版を受け持つ虫プロ商事が発足
1966年12月虫プロ商事が雑誌『COM』を創刊し、『火の鳥』の連載を始める
1970年6月手塚が虫プロ商事の社長を兼ねる
1971年6月手塚が虫プロダクションの社長を退く
1973年8月22日虫プロ商事が倒産
1973年11月虫プロダクションが倒産
1974年春手塚が借金の整理のため自宅を売り、借家に移る

社長を辞めてから倒産までは2年5か月。虫プロダクションが倒産したとき、社長は別の役員に代わっていて、手塚は経営から離れていました。ただし、コラムによると、子会社の虫プロ商事の社長だけは続けていました。

虫プロ(虫プロダクション)が倒産した理由

作品が当たらなくなり、人が増えすぎた

帝国データバンク史料館は、帝国興信所(いまの帝国データバンク)が当時出した『日刊帝興情報』の詳報を紹介しています。倒産の理由はこう書かれていました。

鉄腕アトムブームは下火になり、他社が製作した怪獣、根性ものに押されて虫プロ作品はいずれもパッとせず、人員の急増による経費増などで多額の赤字を抱え、経営不振に陥った。

1960年代後半のテレビでは、『ウルトラマン』のような特撮の怪獣ものや、『巨人の星』のようなスポーツ根性ものが人気を集めていました。虫プロダクションの作品は、その波に乗れませんでした。

その一方で社員は増え続けました。公式サイトのコラムによると、一時は550人に達したそうです。仕事が減っても、雇った人の給料は払い続けなければなりません。詳報が挙げた「人員の急増による経費増」は、この状態を指しています。

子会社の虫プロ商事も先に倒産した

同じころ、子会社の虫プロ商事も行き詰まっていました。1966年に発足した会社で、雑誌『COM』や『てづかマガジンれお』を出し、特撮ドラマ『バンパイヤ』も作っています。『COM』は『火の鳥』の連載が始まった雑誌です。

手塚は、出版部門がつまずいたきっかけを、1986年のエッセイ「どん底の季節」で次のように書いています。

かげりがでたのは、出版部内のトラブルが最初であった。外部から勧誘した幹部と、スタッフとのあいだにささいなディスコミがあり

社員は組合を作って会社と争うようになり、手塚は「オーナーだったぼくはその事情をすこしも知らなかった」と振り返っています。公式サイトのコラムによると、虫プロ商事は1973年8月22日に4000万円の不渡り手形を出して倒産しました。

親会社の虫プロダクションが倒れたのは、その3か月後です。2社の負債は、どちらも手塚個人にのしかかることになりました。

経営に関われない社長

公式サイトのコラムで黒沢哲哉は、根っこにあった問題をこう書いています。

会社経営に関してまったくの素人だった手塚が社長を勤め、しかもその社長はマンガの仕事に追われてほとんど経営に関われない

手塚は1960年代を通じて、週刊誌と月刊誌の連載を何本も抱えたまま社長を続けていました。会社の中で何が起きているのかを、社長本人が知らなかった。虫プロ商事の社長でもあった手塚の「すこしも知らなかった」という言葉は、言い訳というより、そのまま実態だったと読めます。

倒産の責任は手塚にもあります。会社を作り、人を増やし、経営を見ないまま社長を続けたのは手塚です。ただ、虫プロダクションが倒産したときの社長ではなかったので、「手塚が虫プロを潰した」とだけ言うのは正確ではありません。先に倒れた虫プロ商事のほうは、コラムによると手塚が社長のときに倒産しています。

手塚治虫はなぜ借金を背負ったのか

手塚が社長を辞めたあとも借金を負ったのは、手形にサインしていたからです。公式サイトのコラムによると、手塚は社長を退いたあとも、役員に頼まれるまま大量の手形にサインしていて、個人で多額の負債を負うことになりました。

手塚治虫記念館の常設展示の解説も、「すでに手塚は社長を退陣して経営から離れていたが、結果的に両者の負債を背負い込むことになった」と書いています。両者というのは、虫プロダクションと虫プロ商事のことです。

公式サイトのコラムによると、倒産を伝えた讀賣新聞1973年11月6日の記事の末尾には、「手塚さん所在不明」という見出しが付いていました。このとき間に入ったのが、育児用品メーカー・アップリカの葛西健蔵です。コラムによると、葛西が手塚の版権を一時預かり、債権者には返済を待ってもらいました。手塚は実印を妻の悦子に預け、1974年春には借金の整理のために自宅を手放しました。コラムは4月に自宅を売って借家に移ったと書き、公式年譜には3月に杉並区下井草へ引っ越したとあります。

手塚は1985年のエッセイ「私の座右銘」で、「私のプロダクションが倒産の憂き目にあったとき、何人の信頼すべきスタッフに裏切られたかしれない」と書きました。倒産から10年以上たっても、身近な人への不信が残っていたことがうかがえます。

「アトム1話55万円が低賃金の始まり」説は本当か

虫プロダクションの話になると、手塚が『鉄腕アトム』を1話55万円という安値で引き受けたせいで、アニメ業界の制作費と賃金が安くなった、という説がよく出てきます。

この説は、数字の面では言いすぎです。作家の中川右介によると、手塚が「55万円でいいです」と言ったのは事実ですが、当時の虫プロの役員と広告代理店の担当者が話し合い、実際には1話155万円が虫プロに支払われていました。アニメ研究者の津堅信之も、代理店の萬年社が1話100万円を足し、合わせて155万円で作っていたという証言を紹介しています。

津堅は、1話の制作には実際には250万円ほどかかっていたとも書いています。155万円でも赤字だったので、安く引き受けたこと自体は本当です。そのうえで津堅は、「安い制作費の原因を手塚に押しつけるのは、話を飛躍させすぎている」と書いています。中川も、アニメが儲からなくなったのは、虫プロに続いて安値でテレビアニメを引き受けたTCJと東映動画、そして権利を握ったテレビ局と広告代理店のせいだと書いています。

制作費の安さは虫プロの台所を苦しくしましたが、倒産を伝えた詳報が理由に挙げたのは、ヒットが続かなかったことと人員の急増でした。55万円の話を含む手塚のほかの逸話は、手塚治虫の逸話はどこまで本当かでも判定しています。

虫プロダクションと手塚プロダクションの違い

名前が似ていて混同されやすいのが、虫プロダクションと手塚プロダクションです。いまある手塚プロダクションと虫プロダクション株式会社は、どちらも倒産した旧虫プロとは別の会社です。

会社設立どんな会社か
虫プロダクション(旧虫プロ)1961年発足、1962年に株式会社手塚が作ったアニメ制作会社。1973年に倒産
手塚プロダクション1968年1月23日漫画を描くために手塚が作った会社。いまも手塚作品の権利を管理している
虫プロダクション株式会社(新虫プロ)1977年11月26日旧虫プロを受け継ぐ形で作られた別の会社。練馬区富士見台にある

手塚プロダクションは虫プロダクションが倒産する前の1968年からあり、漫画の制作はこちらで続けていました。手塚治虫公式サイトを運営しているのも手塚プロダクションです。手塚作品の本やアニメの権利について調べるときは、まず手塚プロダクションを見てください。

倒産後の手塚治虫とブラック・ジャック

『ブラック・ジャック』の連載は、『週刊少年チャンピオン』1973年11月19日号で始まりました。虫プロダクションの倒産とほぼ同じ時期です。公式サイトによると、最初は5回ほどの短い読み切り連載の予定でした。

それが人気作になり、1983年まで描き継がれます。会社を失い借金を抱えた時期に、手塚は漫画でもう一度第一線に戻りました。主人公の無免許の理由などはブラック・ジャックはなぜ無免許なのか、どの版で読むかはブラック・ジャックは何巻?にまとめています。

2026年8月にNHKで放送された特集ドラマ『手塚治虫の戦争』は、この時期の手塚を描いています。手塚治虫公式サイトの紹介によると、舞台は1973年の東京で、会社の倒産と少年誌の連載打ち切りでどん底に落ちた手塚が主人公です。高良健吾が手塚を演じました。

原作は手塚の『紙の砦』と『ゴッドファーザーの息子』ですが、どちらも倒産そのものを描いた漫画ではありません。『紙の砦』は戦争末期の中学生時代の話です。

倒産の経緯を知りたいなら、ドラマより、この記事に挙げた公式年譜とコラムのほうが確かです。

同じ時期の手塚の作品では、『ばるぼら』の連載中に虫プロ商事と虫プロダクションが相次いで倒産しています。売れることと描きたいものの間で揺れる主人公については、ばるぼら・奇子のあらすじにまとめています。

参考