結論:医師免許は本物、ただし医者としては働いていない
手塚治虫は、本当に医師免許を持っていました。大阪大学附属医学専門部を1951年に卒業し、1952年7月16日に医師国家試験に合格しています。公式サイトの『ブラック・ジャック』の作品ページにも「医学博士であり、医者の免許を持っていました」と書かれています。
一方で、公式年譜には、病院に勤めた記録も開業した記録もありません。卒業後のインターンを除けば、医者として患者を診る仕事はしていません。国家試験に受かった同じ年に東京へ移り、そのまま漫画家として仕事を続けました。
「何科の医者だったのか」については、臨床の専門科を示す一次資料がありません。確かめられるのは研究のほうで、のちに医学博士になったときの研究は、奈良県立医科大学の解剖学教室で、タニシの精子細胞を電子顕微鏡で調べたものでした。
| 疑問 | 答え |
|---|---|
| 医師免許は持っていたか | 持っていた。免許証の現物も見つかっている |
| いつ取ったか | 1952年7月16日に医師国家試験に合格(公式年譜)。医籍への登録は1953年9月18日(Wikipedia) |
| 何科の医者だったか | 臨床の専門科を示す資料はない。博士論文は解剖学教室での電子顕微鏡の研究 |
| 医学博士はいつか | 1961年。奈良県立医科大学 |
| 医者として働いたか | 公式年譜に勤務医や開業医の記録はない |
| なぜ医者を目指したか | 戦時中に腕を病み、医者に助けられたことがきっかけ |
| なぜ漫画家を選んだか | 医学生のころから漫画が売れはじめ、母と恩師の両方から漫画の道を勧められた |
医師免許と医学博士の年表
公式年譜と大学の記録から、医学に関わる出来事を年の順に拾うと次のとおりです。
| 年月日 | 出来事 |
|---|---|
| 1944年8月 | 仁川の一里山健民修練所(体の弱い子どもの錬成道場)に入り、腕を病んで出所する |
| 1945年7月1日 | 大阪大学附属医学専門部に入学 |
| 1946年1月 | 『マアチャンの日記帳』で漫画家としてデビュー |
| 1951年3月24日 | 大阪大学医学専門部を卒業 |
| 1952年7月16日 | 医師国家試験に合格。同じ年に東京へ移る |
| 1953年9月18日 | 医籍に登録(Wikipediaによる) |
| 1961年 | 奈良県立医科大学で医学博士の学位を取る |
医学専門部に入ったのは、終戦のひと月半前でした。デビューは在学中で、卒業したときにはすでに『ジャングル大帝』の連載を抱えていました。医学の勉強と漫画の仕事が、5年あまり重なっていたことになります。
医学専門部は「医学部」とは別の学校
手塚が入った医学専門部は、手塚治虫記念館の解説によると、軍医や占領地の医師の不足を補うために、戦時の臨時の医師養成機関として作られたものでした。Wikipediaによると、学制上は旧制の専門学校の扱いで、学士号は出ない課程でした。
『20世紀日本人名事典』のように「大阪大学医学部卒」と書いている辞典もありますが、これは正確ではありません。公式年譜の書き方は「大阪大学医学専門部卒業」です。医学部と同じく医師国家試験を受ける資格は得られたので、免許を取るうえでは違いはありません。
国家試験の合格と、免許の登録
国家試験の合格日は、公式年譜で1952年7月16日です。「医師国家試験にパス」と書かれています。Wikipediaは1952年3月の第十二回試験としていて、日付は資料によって違いますが、ここでは公式年譜の日付を使います。
Wikipediaはさらに、医師免許の記載として、1953年9月18日の医籍登録を挙げています。どの資料に従っても、20代半ばで医師の資格を得たことは変わりません。
医師免許証は記念館で展示された
免許証そのものも残っていました。2003年11月、手塚の妻・悦子さんが自宅で資料を探していて見つけ、宝塚市立手塚治虫記念館の企画展「『ブラック・ジャック』のDNA」で展示されたと、四国新聞が伝えています。
このとき、市民から「医師が亡くなったら免許証は国に返す決まりがある」と指摘が入りました。記事によると、厚生労働省の担当者は、本来は返してもらうものだとしながらも、資料としての価値もあるので即座には判断できない、と答えています。
この件で、免許証の現物まで確かめられました。
何科の医者だったのか
臨床の専門科は確かめられない
手塚治虫は、どこかの病院で何科の医者として働いた記録がありません。Wikipediaには「専門は外科」とありますが、出典は示されていません。
確かめられるのは研究のほうです。博士論文は、奈良県立医科大学の「解剖学教室電子顕微鏡研究室」での研究としてまとめられています。病気を治す臨床の分野ではなく、体の細かいつくりを調べる基礎医学の分野でした。
博士論文はタニシの精子細胞の研究
論文の題名は「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」です。著者名は本名の手塚治で、1960年10月の『奈良医学雑誌』第11巻第5号に載りました。
材料はマルタニシの睾丸です。タニシの精子細胞は中の小器官が多く、育つにつれて形が大きく変わるので、その変化を電子顕微鏡で追いかけています。大学の記録では、審査の主査は解剖学の安澄権八郎教授でした。
学位を受けた日は、公式年譜では1961年1月19日、奈良県立医科大学の記録では1961年2月7日(博士第88号)と、少しずれています。どちらにしても1961年です。
博士号は漫画家として売れたあとに取った
博士になった1961年には、手塚はすでに『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』で人気作家でした。
公式サイトは手塚の経歴を、医学の道を志して「後年医学博士になるが結局彼自身が一番望んだ職業を選んだ」とまとめています。漫画の仕事を続けながら、別に研究を仕上げて学位を取ったのです。
医者として働いたことはあるのか
勤務医として病院に勤めた記録も、開業した記録も、公式年譜にはありません。
卒業後に大阪大学医学部附属病院でインターンをしたと、Wikipediaや医療機器メーカーPHCの解説記事に書かれています。当時は医師国家試験の前に1年間の実地研修が必要だったので、患者を診たことがあるとすればこの時期です。その後は国家試験に受かった年に東京へ移り、仕事場を新宿区四谷の八百屋の二階の下宿に構えています。
医師の資格は持っていて、医者を仕事にはしなかった。これが「医者だったのか」への答えです。
なぜ医者を目指したのか
腕の病気を医者に治してもらった
きっかけになったのは、戦時中の病気です。公式年譜によると、手塚は1944年8月、仁川の一里山健民修練所に入り、腕を病んで出所しています。
手塚治虫記念館の解説によると、ここは体の弱い子どもの錬成道場でした。手塚はここで腕からばい菌が入り、両腕を切断する寸前までいったそうです。優秀な医者のおかげで助かり、今度は自分が医者になって人を助けたいと考えた、と記念館は説明しています。
公式サイトのトップの紹介文は、もう少し広く「戦争体験から生命の尊さを深く知り、医学の道を志して」と書いていて、腕の病気はその戦争体験のひとつにあたります。
先祖にも医者がいた
医者を目指した理由として手塚が先祖を挙げたわけではありませんが、家系には医者もいました。曾祖父の手塚良庵(のちに良仙)は、大阪の適塾で緒方洪庵に学んだ蘭方医です。手塚自身も、公式サイトの『陽だまりの樹』のページに載っている文章で、三代前の先祖は適塾で学んだ医者だと書いています。
この良庵を若い医師として描いたのが、1981年から『ビッグコミック』で連載した『陽だまりの樹』です。
なぜ漫画家を選んだのか
医学生のころの手塚は、医者になるか漫画家になるかを迷いながら、新聞社などに漫画を売り込んでいました。記念館の解説には、教室の後ろで隠れて漫画を描いていた、大学病院の看護婦さんにアシスタントの代わりをしてもらった、という話も残っています。
最後に背中を押したのは母親だった、と伝えられています。手塚に相談された母は、迷わず自分の好きなほうをやりなさいと答えました。それで手塚は漫画家一本でいくと決めたそうです。この話は、妹の宇都美奈子さんが角川文庫『火の鳥13 ギリシャ・ローマ編』に寄せた文章にあるとされています(Wikipediaによる)。
自伝『ぼくはマンガ家』には、恩師から医者をあきらめて漫画家になるよう忠告された、という話もあるそうです。漫画の注文が増え続けていたうえに、母と恩師の両方から漫画を勧められていた。迷っていた手塚の背中を押したのは、この二つでした。
医学の知識が生きた作品
医者にはならなかった手塚ですが、医学の知識は作品に何度も出てきます。代表的なのは次の3作です。
| 作品 | 連載 | 医学との関わり |
|---|---|---|
| 『ブラック・ジャック』 | 1973〜1983年(週刊少年チャンピオン) | 無免許の天才外科医が主人公。手術や臓器の描写に医学の知識が使われている |
| 『きりひと讃歌』 | 1970〜1971年(ビッグコミック) | 体が犬のように変わっていく奇病「モンモウ病」を追う医師の話。医学界の権力争いも描く |
| 『陽だまりの樹』 | 1981〜1986年(ビッグコミック) | 幕末の医師・手塚良庵が主人公。曾祖父がモデル |
『ブラック・ジャック』について、公式サイトは、自分がもし医者になるならこんな医者になってみたい、という理想の姿を描いた作品だと紹介しています。そのうえで、作中の治療法や病気には「でたらめも多い」と手塚自身が後に書いた、とも認めています。
医学の正確さで読む漫画ではありません。手塚が医学から持ち込んだのは、手術の場面の説得力と、患者と医者のあいだの金や命のやりとりでした。主人公がなぜ免許を持たないのかは、ブラックジャックはなぜ無免許なのかにまとめています。どの版を買えば全話読めるかは、ブラック・ジャックは何巻?で比べました。
まとめ
手塚治虫は、1952年に医師国家試験に合格した本物の医師免許の持ち主です。1961年には、タニシの精子細胞を電子顕微鏡で調べた研究で医学博士にもなりました。
ただ、病院で働いたり開業したりはしておらず、「何科の医者か」に当たる専門科を示す資料はありません。戦時中に医者に助けられた経験から医学を志し、在学中から描いていた漫画のほうを仕事に選びました。
医師免許のほかにも、睡眠時間や最後の言葉など、手塚にまつわる逸話がどこまで本当かは手塚治虫の逸話はどこまで本当かで判定しています。手塚がなぜ「すごい」と言われるのかを功績から確かめたい人は、手塚治虫はなぜすごい?も読んでみてください。
