手塚治虫の逸話はどこまで本当か|嫉妬・睡眠時間・最後の言葉を判定

結論:証言のある嫉妬話は本当、数字の話は怪しい

嫉妬の逸話は、当事者の証言や本人の記録がある話は本当で、まとめサイトにしか出てこない話(仮面ライダー・鳥山明など)は確かめられません。石ノ森章太郎の『ジュン』をけなして謝りに行った話も、大友克洋に「僕もあの絵は描ける」と言った話も、当事者や同席者の証言があります。劇画の流行で階段から転げ落ちた話に至っては、手塚本人が自伝に書いています。

反対に怪しいのは、数字と台詞が一人歩きしている話です。「睡眠は1日4時間」は出どころが分からず、「アトムは1話55万円」は実際に支払われた額と違います。水木しげるを見て階段から落ちた話は、本人の記録では劇画の話です。

判定は、本人の著書、当事者や同席者の証言、手塚プロダクションの公式サイトで確かめられるかどうかで付けました。

逸話判定根拠
石ノ森章太郎の『ジュン』を「マンガじゃない」と言い、謝りに行った本当石ノ森の著書(手紙)と編集者・中村一彦の証言(謝罪)
『仮面ライダー』の原稿を破り捨てた確認できない一次資料が見つからない
大友克洋に「僕もあの絵は描ける」と言った本当同席した石坂啓の証言(公式サイト)
劇画の流行でノイローゼになり、階段から転げ落ちた本当手塚の自伝『ぼくはマンガ家』
水木しげるの『鬼太郎』を見て階段から転げ落ちた確認できない本人が書いたのは劇画。鬼太郎説は編集者の証言のみ
『どろろ』は妖怪ブームに乗って描いた一部本当本人はそう書いたが、連載開始は本格的なブームより前
鳥山明・水島新司に嫉妬の言葉をかけた確認できない一次資料の出典がない
宮崎駿に追悼文で批判された本当『コミックボックス』1989年5月号
睡眠時間は1日4時間一部本当極端な仕事ぶりは確か。数字は確かめられない
海外から電話で背景を指示した一部本当出どころは漫画。細部は確かめられない
『鉄腕アトム』を1話55万円で引き受けた一部本当本人の言った額。実際の入金は別
医師免許を持っていた本当1952年に国家試験合格
生年を2歳ごまかしていた本当生前は1926年生まれで通っていた
ペンネームは昆虫のオサムシから本当本人の自伝、公式サイト
長者番付で画家部門のトップになった本当本人の自伝
最期の言葉は「頼むから仕事をさせてくれ」本当最期まで身近にいた松谷孝征の証言

「確認できない」は、嘘だと決まったという意味ではありません。本人や同席者の記録にたどり着けないので、事実として扱えないという判定です。

ほかの漫画家・アニメ作家との関係

手塚の嫉妬は、若手の絵や新しい表現に向きました。本当と確かめられた話では、相手を認めたうえで嫉妬しています。

石ノ森章太郎『ジュン』への批判と謝罪

判定:本当。

『ジュン』は、石ノ森章太郎が虫プロ商事の雑誌『COM』に1967年から連載した、台詞をほとんど使わない漫画です。石ノ森の著書『絆 不肖の息子から不肖の息子たちへ』(NTT出版、1999年)によると、あるファンから届いた手紙に、手塚が『ジュン』を「マンガじゃない」とけなした直筆の返事が同封されていました。

その後の話は、小学館の編集者・中村一彦が週刊読書人ウェブの連載(2018年)で証言しています。ショックを受けて連載をやめようとした石ノ森のもとへ手塚が訪ねてきて、「自分でもどうしてあんなことをしたのかわからない、自分で自分がイヤになる」と謝ったといいます。連載は1971年まで続きました。

手塚が自分の雑誌に載っている後輩の作品をけなした手紙の件は、石ノ森本人の著書で確かめられます。謝罪の場面も、名前の出ている編集者が証言しています。

『仮面ライダー』の原稿を破いた話

判定:確認できない。

まとめサイトでは、石ノ森が見せた『仮面ライダー』の原稿を手塚が玄関で破り捨てた、という形で出回っています。石ノ森本人の記録にあるのは『ジュン』の件で、原稿を破いた話は一次資料で確かめられません。『ジュン』の件と混同された可能性があります。

大友克洋に「僕もあの絵は描ける」

判定:本当。

手塚治虫の公式サイトに、元アシスタントの漫画家・石坂啓のインタビューが載っています(2024年)。手塚が新人漫画家10人ほどを夕食に招いた席で、大友克洋に「虫眼鏡で見たけど、ひとつもデッサンが狂っていないね」とほめたあと、「でもね。僕もあの絵は描けるんです。描こうと思えば、誰の絵でも描けるんです」と続けたそうです。

石坂は、この話を広めたのはおそらく自分だと話しています。「君の絵なら描ける」の一言だけが切り取られがちですが、実際にはほめ言葉が先にありました。

劇画の流行と、階段から転げ落ちた話

判定:本当。

劇画は、社会の暗い面をリアルな絵で描く大人向けの漫画です。この話は手塚が自分で書いています。自伝『ぼくはマンガ家』に、貸本屋に劇画があふれ、自分のアシスタントまで劇画を20冊も30冊も借りてくるようになってノイローゼの極みに達し、ある日2階から階段を転げ落ちた、という一節があります。公式サイトのコラムも、この文章を『ぼくはマンガ家』を収めた漫画全集『手塚治虫エッセイ集1』から引いています。

公式サイトのコラムによると、手塚は1959年に劇画風の作品を3本描いたものの、まねでは追い越せないとしてやめ、のちに『ビッグコミック』などで独自の大人向け漫画を描くようになりました。戦後の旧家の闇を描いた『奇子』もその系統の作品です。その系統のどれが重いかは手塚治虫の怖い作品はどれかで順位を付けています。

水木しげるの『鬼太郎』を見て階段から落ちた話

判定:確認できない。

「水木しげるの『墓場の鬼太郎』を見て、驚きのあまり階段から転げ落ちた」という話がよく出回っています。ただ、手塚自身が階段から落ちた原因として書いているのは劇画です。鬼太郎説は、元『週刊少年マガジン』編集長・内田勝の証言として大下英治の著書(1995年)に出てきますが、本人の記録にはありません。

水木に「あなたの漫画くらいのことは僕はいつでも描ける」と言ったという話もありますが、こちらは出典を確かめられません。

『どろろ』は妖怪ブームに乗って描いた

判定:一部本当。

手塚が水木を意識していたのは確かです。手塚は手塚治虫漫画全集のあとがきで、『どろろ』は水木作品から始まった妖怪ブームにあやかった、と書いています。一方、公式サイトのコラムは、妖怪ブームが本格的になったのは『ゲゲゲの鬼太郎』がテレビアニメになった1968年1月で、『どろろ』の連載開始(1967年)より後だと指摘しています。対抗心はあったが、時期は本人の回想ほど単純ではない、というのが実際のところです。

鳥山明・水島新司への言葉

判定:確認できない。

鳥山明について「すごい新人が出てきた、勝てない」と言った、水島新司に「君は野球漫画だけ描いていればいいからいいね」と言った、という話はまとめサイトの定番です。いつ、どこで、誰の前で言ったのかを記した一次資料がありません。大友克洋の件のように同席者の証言が出てくるまでは、事実として扱えません。

宮崎駿の追悼文での批判

判定:本当。

これは手塚の嫉妬ではなく、手塚が批判された側の話です。宮崎駿は手塚が亡くなった直後の『コミックボックス』1989年5月号の追悼特集に文章を寄せ、手塚のアニメに「神の手」を見たときに手塚と決別した、と書きました。アニメーションについての手塚の考えを厳しく批判し、『鉄腕アトム』の低予算がテレビアニメの制作費の安さの引き金になったと指摘しています。

ただし、それは時代の流れで避けられないことで、引き金を引いたのがたまたま手塚だった、とも書いています。

この文章は宮崎の著書『出発点 1979〜1996』(スタジオジブリ発行、徳間書店発売、1996年)で読めます。

仕事ぶりの逸話

睡眠時間は1日4時間

判定:一部本当。

極端な仕事ぶりは、映像で残っています。1986年1月10日放送の「NHK特集 手塚治虫・創作の秘密」は、妻以外は入れない仕事場にリモコン操作のカメラを置き、週に5日泊まり込んで3本の連載を同時に進める手塚を撮っています。眠気と闘いながら逆立ちをしてアイデアを絞り出す場面もありました。

ただ、「1日4時間」は伝記類で「といわれる」と書かれている数字です。「睡眠は3日間で3時間」という本人の言葉も上毛新聞のコラム「三山春秋」(2024年5月26日)などで引かれていますが、いつどこでの発言かが示されていません。短かったのは本当、具体的な数字は確かめられない、が判定です。

石坂啓は同じインタビューで、手塚は描き出せば1日半か2日で連載の原稿を終わらせてしまったと話しています。締め切りに遅れる印象があるのは、何本も連載を抱えていたせいだというのが石坂の説明です。公式サイトのこのインタビュー記事では、生涯に描いた原稿は15万枚と言われている、とも紹介されています。

海外から電話で背景を指示した

判定:一部本当。

アメリカに出かけた手塚が、国際電話で「3話前の6ページ3コマ目の校門を入れて」と、原稿を見ずに背景の位置まで指示したという話です。出どころは、編集者やアシスタントの証言をもとに描かれた漫画『ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜』(原作・宮崎克、漫画・吉本浩二)。どの人の証言かは示されていないので、台詞の細部までそのまま事実とは言えません。

『鉄腕アトム』を1話55万円で引き受けた

判定:一部本当。

手塚がテレビアニメ『鉄腕アトム』を安い値段で引き受けたのは事実で、これがアニメ業界の低賃金の始まりだと言われてきました。ただ、作家の中川右介は2020年の記事で、55万円は手塚が言った額で、実際には広告代理店を通じて1話155万円が虫プロに支払われていた、と書いています。アニメ研究者の津堅信之も、当初は1本155万円が代理店から支払われていたとしています。それでも制作費としては厳しかったので、安く引き受けたこと自体は本当です。広まっている「55万円」だけでは実態より安く見えます。

経歴と最期の逸話

医師免許を持っていた

判定:本当。

医師免許を得たのは、医籍に登録された1953年です(免許証の記載による)。手塚は1951年3月に大阪大学附属医学専門部(入学時は大阪帝国大学附属医学専門部)を卒業し、1952年3月に医師国家試験に合格しました。1961年には奈良県立医科大学で、タニシの精子細胞を電子顕微鏡で調べた論文によって医学博士になりました。公式サイトはこの経歴を「後年医学博士になるが結局彼自身が一番望んだ職業を選んだ」とまとめています。

医者としての知識は『ブラック・ジャック』に生きています。主人公がなぜ免許を持たないのかはブラックジャックはなぜ無免許なのかで扱っています。

生年を2歳ごまかしていた

判定:本当。

手塚の本当の生年月日は1928年11月3日です。晩年は大正15年(1926年)生まれで通っていて、本当の生年が広く知られたのは亡くなった後でした。なぜ2歳上にしたのかは諸説あり、本人がはっきり理由を書いた記録は見つかっていません。

ペンネームは昆虫のオサムシから

判定:本当。

自伝によると、少年時代に友人から借りた昆虫図鑑で甲虫のオサムシを知り、そこから「治虫」と名乗るようになりました。1950年ごろまでは「おさむし」と読ませていたそうです。公式サイトも、ペンネームに「虫」の字を入れたことを昆虫好きの表れとして紹介しています。

長者番付で画家部門のトップになった

判定:本当。

自伝によると、1953年に関西の長者番付の画家の部でトップになっています。デビューから7年ほどで、医師国家試験に受かった翌年です。医師の資格を取ったころには、漫画だけで関西の画家のトップに立つほど稼いでいたことになります。

最期の言葉は「頼むから仕事をさせてくれ」

判定:本当。

手塚は1989年2月9日午前10時50分、胃がんのため東京の半蔵門病院で亡くなりました。60歳でした。手塚プロダクション社長の松谷孝征は、手塚が亡くなる最後まで、起き上がれないのに起き上がろうとして「頼むから仕事をさせてくれ」と言っていたと語っています。これが最後の言葉として知られている一言です。社長として最期まで身近にいた松谷本人の証言なので、判定は本当です。

逸話を自分で確かめるなら

出典のないまとめで読んだ話は、まず次の3つに当たると、出どころのはっきりした話かどうかが分かります。本人の回想にも記憶違いはあるので、年代は別の資料とも照らしてください。

  • 手塚の自伝『ぼくはマンガ家』(立東舎文庫ほか)。劇画で階段から落ちた話、長者番付、ペンネームの由来が本人の言葉で読めます
  • 手塚治虫公式サイトの読み物「虫ん坊」。関係者インタビューとコラムで、大友克洋の件などの一次証言が読めます
  • 手塚治虫漫画全集のあとがき。『どろろ』のように作品ごとの事情を本人が書いています

全集は、講談社から全400巻の漫画全集と全200巻の文庫全集が出ています。どちらを選ぶかは手塚治虫文庫全集と漫画全集の違いで比べています。ディズニーとの盗作疑惑はジャングル大帝とライオンキングのパクリ疑惑で別に判定しています。

参考