結論:封印の理由は、いまも誰にも分かっていない
『ながい窖』(ながいあな)が全集から外された理由は分かっていません。1970年に手塚治虫が描いた約50ページの短編で、出自を隠して生きてきた在日朝鮮人の父親が主人公です。
手塚プロダクションも、東京新聞の取材に「当時を知る人がおらず、わからない」と答えたそうです。手塚治虫本人が封印したのか、出版社の判断なのかも、裏づける資料は出ていません。「差別を扱ったから外された」という説明も、推測の域を出ません。
2026年6月に法政大学出版局が復刻し、いまは新刊(2,200円・税込)で読めます。電子書籍はありません。
漫画としての出来は粗いところがあります。それでも、復刻を企画した編集者が「在日をめぐる差別の実態と当事者の苦悩をここまで真正面から描いた漫画は他にないのでは」と話すほど、差別を正面から描いた作品です。手塚作品をある程度読んだ人なら、手に取る価値は十分にあります。
『ながい窖』はどんな話か
読み方と初出
題名の「窖」は、地面に掘った穴やあなぐらを指す字です。国立国会図書館の書誌では「ナガイ アナ」と登録されていて、版元も「ながい窖(あな)」と読みを添えています。
最初に載ったのは『サンデー毎日』1970年11月6日増刊号で、50ページの読み切りだったとされます。少年誌ではなく、大人が読む週刊誌の増刊です。その半年ほど前まで、手塚治虫は『プレイコミック』で大人向けの短編シリーズ『空気の底』(1968〜1970年)を連載していました。
あらすじ
主人公の森山尚平は、長浜軽金属という会社の専務です。民族名は趙。戦時中は、岐阜県の戸狩(現在の瑞浪市)の地下壕で強制労働をさせられていました。戦後は出自を隠して日本に帰化し、大企業の役員にまで上りつめています。題名の「窖」は、この地下壕のことです。
ある日、森山は同胞の金文鎮に頼まれ、北朝鮮から密入国した青年・除英進(原作の表記のまま。「徐」の誤記とする見方もあります)を家にかくまいます。森山の娘の亜沙子は英進と親しくなり、2人は刑事から逃げる途中でトラックにはねられて死んでしまいます。
森山は娘の遺体を前にしても、出自が知られるのを恐れて「友人の娘さんです」と偽ります。父親に失望した息子の久は朝鮮人の高校に入り直し、日本人の学生から暴行を受けて大けがをします。
相手の学校の校長は、差別的な態度で取り合いません。森山はそこで初めて「わしは朝鮮人だ!それがなぜわるい!!」と叫び、話はそこで終わります。そのあと森山がどうなったかは描かれていません。
なぜ54年間封印されていたのか
入っている本と入っていない本
『ながい窖』が本に入ったのは、1972年に朝日ソノラマのサンミリオンコミックスで出た『空気の底』下巻です。朝日新聞は「72年に刊行された短編集『空気の底(下、初版)』を除き全集や作品集に収録されていない」と書いています。朝日ソノラマは1978年に改訂版の上下巻も出していますが、こちらに入っているかは確認できていません。
『空気の底』の名前が付いた本は何種類もあります。主な版で、どれに入っているかを確かめておきます。
| 本 | 『ながい窖』 |
|---|---|
| 朝日ソノラマ『空気の底』下巻(1972年) | 入っている |
| 講談社『手塚治虫漫画全集』の『空気の底』 | 入っていない |
| 秋田文庫『空気の底』 | 入っていない |
| 『手塚治虫文庫全集』の『空気の底』 | 入っていない |
| 立東舎『空気の底 オリジナル版』(2020年) | 入っていない |
| 法政大学出版局『ながい窖』(2026年) | 入っている |
手塚治虫公式サイトの『空気の底』のページに並んでいるのも、『プレイコミック』に連載した14話だけです。公式サイトの作品一覧には『ながい窖』の作品ページ自体がありません(2026年10月時点)。
立東舎の『空気の底 オリジナル版』には、本編14話のほかに「不条理短編集」として4編が足されています。それでも『ながい窖』は選ばれていません。ソノラマ版で同じ下巻に入っていた「処刑は3時におわった」「聖女懐妊」は、こちらに収録されています。同じ下巻にあった「一族参上」なども全集の『短編集』に入りましたが、『ながい窖』はどの本にも入りませんでした。
理由はどこにも書かれていない
2026年4月、手塚治虫公式サイトは復刻の告知を出しましたが、全集に入らなかった理由には触れていません。手塚プロダクションが東京新聞に答えた「当時を知る人がおらず、わからない」が、確認できた範囲では権利元から出ている説明のすべてです。
理由については、書評を書いた人たちがそれぞれの見方を出しています。
- 吉村和真(京都精華大学理事長)は文春オンラインの書評で「手塚が『ながい窖』を封印した理由は不明である」と書いています。手塚治虫本人が外したという書き方ですが、その根拠は示していません
- 市原尚士(ジャーナリスト)は、長く復刻されなかったのは、日本人の加害を正面から問う作品を出す勇気が出版社の側になかったからだ、という見方です
どちらも書き手の推測で、裏づけはありません。「作者が封印した」「差別を扱ったから外された」と言い切っている記事を見かけたら、根拠が示されているかを確かめてください。
確かなのは、1977年に刊行が始まった講談社の全集にも、その後の文庫や電子書籍にも入らず、50年以上ふつうの書店では手に入らなかったことです。読みたい人は、半世紀前のソノラマ版の古書を探すしかありませんでした。
ほかの封印作品と比べたいときは、手塚治虫の封印作品で、いま読めない話と読めるようになった話を一覧にしています。
なぜ2026年に復刻されたのか
出版社の編集者が見つけた
復刻を企画したのは、法政大学出版局の編集者・赤羽健です。朝日新聞によると、2023年に映画や文学や漫画でマイノリティーがどう描かれてきたかを調べていて、この作品に行き当たったそうです。「在日をめぐる差別の実態と当事者の苦悩をここまで真正面から描いた漫画は他にないのでは」と考えたことが、企画の出発点だと話しています。
法政大学出版局は、普段は学術書を手がける出版社です。手塚プロダクションの側から出た企画ではないので、全集や電子書籍に入る予定があるかどうかは、公式には何も出ていません。
法政大学出版局版の中身
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 発売日 | 2026年6月2日 |
| 定価 | 2,200円(税込) |
| 判型 | A5判・並製・134ページ |
| ISBN | 978-4-588-42024-5 |
| 底本 | 原稿から再スキャン |
| 付録 | 6人の解説(約80ページ) |
本の半分以上が解説です。解説を書いたのは次の6人です。
| 解説者 | 肩書 | 解説の題 |
|---|---|---|
| 四方田犬彦 | 比較文学研究家・エッセイスト | 差別を見つめる人 手塚治虫 |
| 本浜秀彦 | 文教大学教授 | 単線的な手塚像の修正を迫る作品 |
| 李鳳宇 | 映画会社スモモ代表 | 強く日本人であること |
| 神谷丹路 | 日韓関係研究・翻訳家 | 在日コリアンと日本社会 |
| 林晟一 | 評論家・中高教員 | まっとうな世界への序曲 |
| 李英美 | 京都大学人文科学研究所助教 | 「朝鮮人」の物語を今読むということ |
漫画のページだけで見ると、50ページで2,200円は割高です。ただ、在日朝鮮人の戦後の暮らしを知らない読者には、作中の就職差別や帰化の重さが分かりにくいところがあり、解説がそこを補っています。
発売直後に重版
版元は発売2日後の6月4日に重版を告知しました。朝日新聞によると、普段より多く刷った初版が発売翌日にほぼ売り切れ、約1か月で4刷まで重ねています。
いま読む価値はあるか
あります。ただし、手塚治虫の代表作を読んだあとに読む1冊です。
漫画としての完成度は高くありません。市原尚士の書評によれば、解説を書いた四方田犬彦は「端的にいって失敗作」と言い切っています。市原尚士自身も「失敗作だったのではなかったか」と書いています。50ページに戦時中の強制労働、密入国、娘の死、息子への暴行、校長とのやりとりまでを詰めているので、話の運びは急で、人物の気持ちの変化を追いきれない場面があります。
それでも読む価値があるのは、次の2点のためです。
- 差別される側の人間が、自分を守るために娘の遺体まで否認してしまうところを、言い訳を挟まずに描いている
- 結末で森山がその後どうなるかを描かず、叫んだところで終えている。読み終えたあとも、森山の会社での立場や家族のことを考え続けることになる
吹き出しの中には日本語訳の付かないハングルが13か所あると、市原尚士の書評は書いています。日本語しか読めない読者には分からない言葉を、あえてそのまま置いているわけです。
民族と差別を描いた手塚作品としては、晩年の『アドルフに告ぐ』のほうがずっと完成されています。出自を隠して生きる人間と、それを暴こうとする周囲という題材を、手塚治虫は『アドルフに告ぐ』の13年前に、すでに日本を舞台に描いていました。『アドルフに告ぐ』の評価はアドルフに告ぐの評価にまとめています。
血が流れる場面はありますが、ホラーのような怖さはありません。手塚治虫の大人向けの作品で、読んで重く残るものを探している人には手塚治虫の怖い作品はどれかも参考になるはずです。
いま読む方法
| 方法 | 状況(2026年10月時点) |
|---|---|
| 新刊(法政大学出版局版) | 2,200円(税込)。書店によっては在庫切れや取り寄せ |
| 電子書籍 | 出ていない |
| 図書館 | 大学図書館69館が所蔵(CiNii Books)。国立国会図書館にもある |
| 国立国会図書館のデジタル化資料 | 1972年のソノラマ版下巻を館内で閲覧できる |
いちばん確実なのは新刊です。刷を重ねているので、書店の店頭に無くても取り寄せればまず手に入ります。
買う前に読んでおきたいなら、図書館を探してください。大学図書館は学外の人が使えないこともあるので、近くの公共図書館にあるかを先に確かめ、無ければ相互貸借で取り寄せてもらえるか相談するのが早道です。図書館で手塚作品を読むときの探し方は、手塚治虫の漫画を無料で読む方法にまとめました。
古書のソノラマ版は、古い版で読みたい人向けです。朝日新聞は収録を「初版」に限って書いていて、1978年の改訂版を含め、後の版や刷に入っているかは確認できていません。古書で買うなら、目次に「ながい窖」があるかを出品の写真で確かめてから買ってください。
